諏訪之瀬島アラカルト

9 もう一つの日本のポンペイ
 ポンペイはイタリアのベスビオ火山が西暦79年に大噴火をした際に、火砕流によって地中に埋もれた遺跡として知られています。日本では、浅間山の麓にある鎌原村が同様の遺跡として知られています。1783年の天明大噴火の際に火山泥流が発生して集落の大半が埋もれてしまいました。
 実は、諏訪之瀬島でも1813年の文化大噴火の際に大規模なスコリアの噴出が発生し(集落では約30cm、山頂から西部のアカズミあたりでは数10mにおよびます)、400〜500人もいた島民は命からがら近くの島に避難し、以後70年間は無人島になりました。噴火の最後には火山泥流が発生し、スコリアで焼けた住居跡や耕地になだれ込んだようです。この事実が日本のポンペイたる所以です。明治時代に奄美大島から移住してきた開拓民は大半がその住居跡を利用して住みました。最近になって、西にあった集落が東に移動し、新たな集落が形成されました。もし許されるなら西の集落跡を調査すれば、噴火以前の暮らしぶりが分かるかもしれません。
 平吉孝明(1984):もう一つの日本のポンペイ 地図と教育、秀文出版 、158号、p1〜4

           

  ポンペイ遺跡(2012)後方がベスビオ火山                   中央部(小中学校の北側の樹木に覆われた部分)に旧集落があった 右奥は御岳火山

8 オオミズナギドリの島
 中之島を出て諏訪之瀬島に向かうフェリーとしま2の航路で最初に出会うのがオオミズナギドリで、大きな羽を思い切り開いて飛ぶ姿はとても優雅です。諏訪之瀬島の最北端、富立岳の中腹に彼らは巣を作っています。元来、オオミズナギドリのような大きな鳥は地上から飛び立つことは不可能で、富立岳のような切り立った崖のような場所から飛び立つのが通常です 。1969年と1970年の8月に筆者も富立岳に登っていますが、たくさんの巣穴に足を取られたことは記憶しています。残念ながら飛び立つ姿は目撃しておりません。巣穴にあった卵は鶏の卵と同じくらいであったと記憶しています。当時の区長さんにオオミズナギドリのことを尋ねると、島の人はカツオドリと呼んでいるということでした。
 森林総合研究所の研究報告第10巻4号に掲載されたトカラ列島の鳥類相(2011)によると、 「諏訪之瀬島でも営巣しているとされるが(永井、1938)、諏訪之瀬島御岳の活発な噴火活動による入山規制のため近年の状況は不明である。」としています。
 環境省が作成した「モニタリングサイト 1000 小島嶼( 海鳥 )調査 2004 2018 年度 とりまとめ報告書」(2021)によると、諏訪之瀬島のオオミズナギドリに関しては過去に繁殖の報告(森田忠義、1994)があるものの、島には繁殖地までの道がないことや渡船しかないことでバツが記され、不明となっています。
 最近になって、新たな棲息の報告が出てきました。2022年7月に富立岳から流れ落ちる落差が日本で2番目の「白水の滝」を初めて登攀した辺境クラブ所属の小阪健一郎氏による報告(2022 ROCK&SNOW 97)にオオミズナギドリの棲息の一端が記されています。関連する文章は「さらに上をめざさんと懸垂下降を登り返し、そこから酒井、けんじり、赤堀の順で、猛暑で猛烈なヤブの急斜面にロープを延ばした。体力と気力のかなりを消耗し、日暮れギリギリの19時にヤブの少ない樹林帯に這う這うの体でたどり着き、なんとか横になれそうな平地の横たわった。しかし、そこはオオミズナギドリのテリトリーだった。夜通し何千羽もの大きな鳴き声が世界中に響き渡り、夜通しヨタヨタと斜面を転がりながら歩いて移動していたのだ。横になっている僕の体どころか頬の上も平然と飛び乗ってきた。その度に「うわっ」と声が出て目が覚めてしまう。一晩に10回以上は起こされただろうか。ひどい夜だった。夜が明けるとオオミズナギドリは忽然と姿を消し、寝不足だけが残った。」というもので生態が生々しく記されています。
 2023年7月に富立岳の白水の滝をめざした島民の秋庭ナラ氏も同様の体験をしています。富立岳の山腹でビバークをしていた際、雨上がりの早朝に空中を飛びながら鳴いているオオミズナギドリの声を聞いています。次の写真は富立岳付近を飛ぶオオミズナギドリとその巣穴です。

      

 写真1 中央手前が富立岳でそこから飛び立ったオオミズナギドリ        写真2 オオミズナギドリの巣穴 秋庭ナラ氏撮影



  モニタリングサイト 1000 小島嶼( 海鳥 )調査 2004 2018 年度 とりまとめ報告書より(環境省、2021)

7 旧火口流出口にある竪穴
 旧火口の一番低い場所(流出口)に、竪穴があります。1969年当時島の人は、ここは鬼が棲むと信じ恐れていたということでした。写真1の黒丸の部分が入口。写真2と4は1970年8月4日に実施された立正大学探検部による竪穴調査。写真3はその際に明らかとなった見取り図(入口の直径が約6m、深さ約18m)です。底部は火山灰で覆われており、更に人が通れる大きさの出口が見つかりました。このことから、この竪穴は溶岩トンネルの一種と考えられました。ただし、写真2にあるように入口はまるで噴火口のようです。写真4は調査に使用したワイヤ梯子です。梯子の上部に見られる厚さ数mの溶岩は文化噴火のものと考えられますが、なぜこの場所に開口したのか不明です。熱い溶岩が流出後、(崖状の地形になっていたため)陥没したとも考えられます。当時在島中であった詩人のナナオ・サカキ氏によりこの竪穴の名称をドラゴンケーブとしました。
 最近の火山活動の活発化によって、ほぼ常時御岳山頂周辺は立ち入り禁止となっていますが、調査に訪れた際に激しい噴火があった場合の避難場所としてこの竪穴は利用可能です(ただし、出口から入らなければならない)。

  

        

   写真1 旧火口流出口にある竪穴                  写真2 竪穴の入口 

 

      

     写真3 竪穴断面図                     写真4 竪穴降下のためのワイヤ梯子                            

 

6 トカラヤギ
  写真5および6は島内全域に生息する野生化したヤギ(トカラヤギ)である。元々は、食料用として戦後導入されたようです。ところが、人口が少ない上に広大な無人の土地が備わっていたことで、南部の集落付近にしかいなかったヤギが今や全島に生息しています。おかげで、道路の無いこの島にあってヤギの作ったけもの道はとても重宝しました。何せ、北端の富立岳の頂上まで住んでいますから、彼らの作ったけもの道には本当に助けられました。

       

   写真5 富立岳付近に生息するトカラヤギ               写真6 作地に生息するトカラヤギ               

 

5 作地温泉
 半世紀前には、写真7および8にあるように作地海岸に温泉施設(現在は撤去されている)が作られていました。現在は、海岸に湧き出した海中温泉があるのみです。写真9にあるように標高150m付近には、現在でも源泉が湧き出しています。

    

  写真7 旧作地温泉施設(1981年)                       写真8 旧作地温泉(露天風呂風)

     

 写真9 明治溶岩流の下部に湧出     写真10 作地温泉源泉(標高約150m、泉温40〜42度) 

4 飛行場付近の地層
 写真10は飛行場を造成する際に作られた道路の切り割です。中央下部に文化噴火前の円形の表土(2m)、その上部に黒い降下スコリアの層(30cm)、更にその上を火山泥流の層(手前が3m、中央部が1.5m)が覆っています。その中を見ると大小の岩塊が含まれており、大きいもので1.5mほどの溶岩片が見られます。スコリアの層は、表土に対し雪のように積もっているので降下火砕物として扱われます(伊豆大島のバウムクーヘンのように)。一方、火山泥流は供給源(左側に噴出源がある)に近い方が厚く積もっています。供給源とこの台地の間には、集落のある低地(標高約100m)があリますが、比高にして約30mほどあり、それをものともせず進んだということは相当のパワーがあったと考えられます。なお、現在この地点を確認することはできません。セメントで覆われたか、植生などが繁茂したかが考えられます。



 写真10 諏訪之瀬島のバウムクーヘン(文化噴火の堆積物) 

3 七島衆(しちとうしゅう)
 1578年、島津氏の三州統一を琉球に知らせたのが七島船という記録があります。このころのトカラは「七島」と呼ばれていました。このころ、中之島の郡司が日向の倭寇東与助などを討ちはたし、島津氏から「鎧、槍、長刀」などを拝領したという言い伝えがあります。秀吉の朝鮮出兵や1609年の島津氏の琉球出兵では、七島衆は水先案内をしています。とくに琉球出兵では、「七島弐拾四人衆」を中心に250人が参加しました。功績を認められ、弐拾四人衆1人に付き知行高300石(実際は30石か)を与えられています。弐拾四人衆が貿易商人でもあり、領主的存在(海上勢力的性格)だったことがわかります。(1)
 七島衆とは、16世紀後半ごろに薩摩藩の貿易統制を受けない海商で、琉球と日本を往来していた集団である(七島とは、薩南諸島のトカラ列島のことである)。全盛期には琉球から小王(領主が統治)を称されるほどの海上領主であった。ところが、17世紀に入り、徐々に薩摩藩に取り込まれていった。特に1609年の薩摩藩島津氏による琉球侵略(七島衆が水先案内をした)以降は、完全に支配権が島津氏に帰することになった。その結果、七島は薩摩藩の蔵人地として御船奉行の支配下に置かれ、口之島・中之島・宝島には津口番所が設置され、七島地頭は廃止された。16世紀の海上領主としての立場を失い、17世紀中頃には完全に薩摩藩の支配下に置かれた(2)。
 南西諸島の北に口之島・中之島・悪石島・諏訪之瀬島・臥蛇島・平島・宝島という7つの島が飛び石状に連なっている。黒潮が流れを東方に変えるこの海域は七島灘と呼ばれる海の難所である。そのため、七島が日本(薩摩)と琉球の国境であった。(略)1609年の薩摩侵入後、七島は薩摩藩領となった。1639年の「御民国中惣高井衆中乗馬究張」によると、石高は497石9斗6升余であった。七島は薩摩藩の行政上は御船奉行の支配下にあり、口之島・中之島・宝島に津口番所がおかれ、鹿児島城下より在番が二人ずつ交代で派遣されて勤務した。御船奉行の支配下には七島のほかに黒島・竹島・硫黄島の三島があったが、島役人の呼称は異なる。三島の島役人は庄屋、七島は郡司と称した(七島郡司)。(3)。
 いつ頃のデータかはよくわかりませんが、薩摩藩により与えられた薩南諸島の島々の石高一覧が示されています。何と、七島の中で諏訪之瀬島は宝島に次いで多いのです。

  宝島 諏訪之瀬島 口之島 中之島 平島 悪石島 臥蛇島
人口 340 400~500 123 131 97 120 82
石高 395 127 110 82 75 35 3

*1813年の大噴火以前は400〜500人が暮らしていたと言われていますが、南部の狭い集落付近の畑や漁業だけでは石高に見合う収益は得られていないと考えられます。七島衆のメンバーが何らかの貢献(海上交易等)をしたのではないか、噴火の際の集団避難も彼らの力によるところが大きかったのではないかと想像しています。

(1)麓純雄(2018):奄美・トカラの歴史(3)〜15・16世紀〜、NetIIB-News
(2)深瀬浩一郎(2007):16・17世紀における琉球・南九州海域と海商、史観、157、p1〜23
(3)紙屋敦之(2003):琉球と日本・中国、山川出版社、p1〜98 
(4)野元新市(2021):島津又七の生涯 「密貿易」に関する口永良部島の実態編8 、p1〜11

2 諏訪之瀬島の地図と地名
(1)地図について
 白野夏雲が1884年(明治17年)4月20日に、島を周回した時に平島から同行した島民から聞いた地名を書き留め、後に七島問答及び十島図譜にて初めて発表しました。現在の国土地理院の地図と比べてかなり違います。


   左が七島問答に掲載された地図(見取り図は同じであるが地名に一部異なるところがある) 右が十島図譜に掲載された地図(これが自筆の地図)

 島嶼見聞録や拾島状況録には地図が掲載されていません。 文章の中に、地名の項目があるのみです。
  島嶼見聞録:本島の名何に由を起るを知らす島の中央に御嶽あり島中第一の高峰たり其他根神山、御山、根山、富田山、西崎、荒崎、潮見崎、宮崎、長崎、弊崎、作地、赤濱、白濱、切石、元浦等あり皆本島肝要の地名とす
  拾島状況録:この島の地名を列記してみると、元浦、温泉浜、川原、大船浜、赤崩、水川、西崎、円浜、折倉、崎脇、山下(小浜橋の尻角、岩屋、大岩屋、落水根、山浮ネどの小さな名称もある)。富田崎、白水の滝、作地浜、荒崎(作地の山鼻ともいう)、切石、潮見崎、宮崎、七つ穴、長崎、弊崎などである。
 次に登場するのが、 戦後、米軍の軍政下(1946〜1952年)に置かれた際に使用された5万分の1の地図です。その後、日本に返還されてからしばらくの間、十島村管内図として使用されていました。私が最初に役場を訪れた際もこの地図を渡されました。当時は、これしかなかったのです。
 地名については、左が白野夏雲が1884年4月に平島の船乗りから聞いて書いた地名を、国土地理院の地図に移したものです(白野の地図はスケッチに近いので、七島問答の記述を元に作成)。右は1969年当時の園山区長から直接聞き取りして記入したものです。85年間でかなり違っています。

 

 国土地理院が発行した最初の地図は、1965年の20万分の1地勢図です。地名を見ると九つのうち七つが誤っています。おそらく現地調査をせず記入したものと思われます。正確な地名は、洲崎→富立崎(鼻)、ミムマ崎→作地、吉里浦→切石、切石浜→長瀬、長崎→大船浜、トリ崎→西崎(酉と西を間違えたか)、富立御岳→御岳となります(最新の地勢図では訂正済みです)。その隣は、米軍統治時代(トカラ列島は1952年に返還)に作成された5万分の1の地形図です。国土地理院の地形図が発行されるまで、戦後30年近くも唯一の地形図として使用されていました。空中写真をもとに作成したものと思われます。

            

   20万分の1地形図(1965年)                                                                     米軍作成地形図

 国土地理院の実用的な地形図である5万分の1と2万5千分の1の地形図が出たのは1972年になります。その際の2万5千分の1地形図の名称は、諏訪瀬島でした。1万分の1地形図が2006年、火山地質図(地質調査総合センター)が2013年、火山基本図火山土地条件図が2023年となります。

(2)地名について
 1813年の噴火後、70年近く無人島の時代があり、新しく移住してきた人は大半が奄美大島の出身で、以前の地名は全く知らなかったと思われます。おそらく、居住している間に近くの平島や悪石島などの住民から教えてもらったのではないかと思います。白野が記した報告書は見ていないのではないかと思われますが、上述したように白野も平島の住民から聞いて記入しました。元は同じと考えると明治のころはこのような地名を使用していたのではないかと考えます。その後、100年ほどの間に島民の間で、異なる地名が生まれたり、白野の記述自体が誤っており平島や悪石島の島民から正確な地名を新たに伝えられたりすることによって、現在の呼称になったとも考えられます。
 気になる地名として、富田峯、根神岳、水川などがあります。七島問答では、富田峯、富立崎の表記となっていますが、50年前に当時の区長さんから伝えられた名称は富立(とんだち)でした。島の方は、この場所を訪れる場合、船でやってきます。そうすると、七島問答にある富立(崎)がとんだち(さき)となり理屈に合っています。根神岳については、集落に最も近く身近な存在です。ところが、5万分の1地形図では根上岳となっており、名称も位置も違っている。根神岳という名称は、七島問答及び拾島状況録においても使用しており、位置についても標高470mではなく、408mの鍋状の火口を持つ山体です。現在の国土地理院の地図はいずれも470mの場所を根上岳としています。水河(すいごう)についても、白野が表記をするとき間違えたか、編集者が製本にする際に間違えたのではないかと思われます(七島問答と十島図譜においても同じ間違いがあります)。サンズイの河を三本川の川にしたのではないか。ただし、水川の読みは現在でもすいごうですのでこのような推察をした訳です。

 

1 笹森儀助の諏訪之瀬島滞在日記 東喜望(1985):笹森儀助とトカラ列島、白梅学園短期大学紀要、21、p3〜16
 七月一一日 島舟を二円六十銭で傭い午前七時三十分出帆、同一一時二五分諏訪之瀬島着。池山仲吉方へ投宿。開島の先駆者藤井富伝の来訪を受け二時間余会談、開島の顛末を聞く。(以下一四日まで、同行者が代行せしものか、二二日島民を集め演述。一三日戸籍及び当地の状況調査・児童の学習参観。一四日村落及び噴火前の遺跡調査・東海東海岸の耕地視察等を実施。)一五日午前七時出起、御嶽登山、一二時絶頂着。噴火口・旧火口・熔岩遺跡など観る。一六日東岸を巡り七つ穴の岩窟(八十余年前の噴火の時の避難場所。島民はここから出帆したという)を見、西崎まで巡視。一七日現島民移住以来の沿革調査。前噴火の際、陶器を運びし七つ穴の上方を調査、陶片を発見す。一八日新村建設可能地の有無及び噴火口探究のため漁舟にて全島一周。脇山湾に上陸、沖縄人出稼漁の小屋あり。迫地浜へ上陸、熔岩を踏みわけ噴火源を探るも果さず。劇潮、舟進まず、漸く夜十時帰宿。一九日臥床。二十日島民を集め改良すべき事項を協議、決定。二一日農省務省吏員・県官ら五名御嶽登山。激浪のため船を引揚ぐ。二三日三度御嶽登山、噴火口発見。池山仲吉の妻子より開島当時の事情を聴取。午後六時より暴風。二四日風害作地を踏査。二五日午前四時暴風止む。島民に世話人の選挙と給与額の増加を勧告。二六日旧道踏査。藤井富伝を島庁雇に採用。二七日島庁書記奥村及び浜上謙翠の書状(六月一一日付大島発)悪石島の舟にて届けらる。同舟、悪石島に於ける台風遭難状況を報告(枕崎鰹漁船二艘難破。乗員六十人中五十四人救助、内三六人枕崎へ送還、一八人残留。溺死者六名、死体捜索中)。二九日瀬尾書記・松田戸長悪石島、漁船に便乗して先発せしも逆風のため帰島。今朝より米尽き唐芋・粟の雑飯となる。三一日瀬尾・松田悪石島へ先発。八月一日藤井富伝来訪、移住以来の船舶・総入費等を語る。二日鹿籠浦(現枕崎)より難破船捜査の船到着。黒島にて二十余船難破、溺死者一四九人ありしを聞く。五日軍艦海門号に船を牽かせて悪石島へ渡る。

*笹森が視察の行程と経過を一覧表にした『川邊郡拾島巡回覧日記』を元にしたものです。内容も簡潔で、無人島となるきっかけとなった1884年の大噴火の火口を特定するために、3回御岳に登ったり、迫地浜(迫尻か?)から上陸して熔岩(大船浜溶岩流か?)を踏み分け、噴火源を探したとあります。大船浜から旧火口までは現在でも登るのは厳しいコースです(水河からであれば見晴らしもよく旧火口にたどり着いたと思われますが)。なお、笹森は諏訪之瀬島に渡る前から病床に伏しており、諏訪之瀬島に着いた日から4日間寝込んでいたとあります。