はじめに

 1 諏訪之瀬島とは
 諏訪之瀬島は鹿児島市の南西約200km、トカラ列島のほぼ中央に位置する火山島(現在の最高峰の御岳の標高は796mですが、以前は799mでした)、行政的には鹿児島県鹿児島郡十島村に属します。島の面積は約22.3平方kmで中之島に次いで大きく、現在の人口は39世帯、84人(平成23年11月現在)です。
 鹿児島県の広報(ホームページ)には、トカラ列島に関して次のように紹介されています。
『トカラ列島県立自然公園は,屋久島と奄美大島の間に160kmにわたって飛び石状に浮かぶ,口之島や中之島,諏訪之瀬島といった10余りの島々(トカラ列島)の代表的な景観である,火山,海食崖,サンゴ礁及び野生生物の生息地でもあるすぐれた天然林などが指定されています。 宝島,小宝島では,島の周囲はほぼ全域にわたって広い隆起サンゴ礁が裾礁をなしており,それ以外の島々では,周囲にほとんど平坦地がなく,海岸からいきなり屹立する山の急斜面や数10〜100m以上の海食崖となる地形となっています。 トカラ富士の名で呼ばれる中之島の御岳や,現在も活発な火山活動を続けている諏訪之瀬島の御岳など火山地形を多数見ることができます。』
 *1992年4月にトカラ列島県立自然公園に指定されています。

      

                                          噴煙を上げる御岳火口(手前は富立岳)2024年8月

2 諏訪之瀬島の噴火活動について

 諏訪之瀬島の御岳火山が日本でもっとも活発な火山であることを知っている人はきわめて少ない。というのは、かつては週に一度、現在でも週2〜3便、鹿児島より村営の定期船(『フェリーとしま2』で約8時間かかる)が運航するほか、週に2度の飛行機便(不定期)がある。 過去の噴火記録からわかるように、付近を航海中の船舶や飛行機などからの報告が中心で、現地からの報告は皆無に等しかった。 昭和30年代頃から、 気象庁の依頼により隣の中之島や諏訪之瀬島とで別々に肉眼による観測が行われるようになり情報漏れは少なくなってきたが、双方で食い違いがみられることがしばしばあった。これは、中之島側からは火口が正面から見えるのに対して、諏訪之瀬島では御岳の陰になってしまい、風向きや噴火規模の大小の関係などで観測できないからである。 最近になって国の観測体制が整い、諏訪之瀬島は常時観測火山に指定され、気象庁による火口の常時観測体制が構築された。ただ、上述したように正面からの観測は、火口の全貌が見える中之島の寄木にカメラが設置された。その結果、インターネットで、昼夜を問わず誰でも見ることができるようになった。
 地図についても近年大きく変化してきたが、1969年初めて訪れた時は、国土地理院の地図はなく十島村役場でいただいた米軍製の地形図を使用していました。その後、5万分の1、2万5千分の1の地形図が発行され実用的になりました。近年は、1万分の1、火山地質図、火山基本図、火山土地条件図などが発行されますます便利になりました。更に、ネットでも見られるようになり隔世の感があります。

3 文献に見る諏訪之瀬島の地勢記述の変遷

(1)大森房吉(1920年) 東洋學藝雑誌、第32巻、第410号
 霧島、櫻島、開聞、硫黄島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島等は東北より南西に延長する一大火山脈を構成す。而して中之島、悪石島は共に死火山と認むべきものなるが、其の中間に位置する諏訪之瀬島は反對に古来大活動をなせるものとす。諏訪之瀬島は長さ約二里にして北々東より南々西に延長し、村落は島の南端の高臺地にあり、人口約二百五十名を算す、島の南部は古き鎔岩より成り、又北端富立は更に一層古き時期に屬し既に赤土となり共に全く火山活動力を保持せざるものにして島の略中央部に當り其最高部に於て現時の活火山を生じたり、高さは約八百メートル成り。昨年頃より噴火の勢力を減じたるも、目下尚ほ噴烟降灰は少なからず、今回登山の際も余及び兼松加藤兩氏が孔壁西々北側に立てるとき破裂電光を閃かし、黒烟騰上せる中より岩石塊を頭上へ抛射し前後に落下せるも幸に無事なるを得たりき。

(2)鈴木醇(1944年) 火山、第2巻、第4号
 諏訪瀬島は十島村中之島に次ぐ大島で、口永良部島、口之島 、中之島を結ぶ一直線上に存するもので、その内には唯にトカラ群島中のみならず琉球火山帯否日本各地の火山帯中に於ても第一流に屬すべき活動力旺盛なる活火山を有して居る。本島は北北東より南南西に延びた不規則な菱形を示した島で、長径8粁、短径5粁を示して居る。島の中央部に在る御嶽の最高點(799米)は舊火口壁の一部であるがその中央火口丘よりは現今盛んに煙を噴き又山頂附近より海岸にかけては比較的新しい時代の噴出によると思はれる溶岩流及び火山岩屑とが分布して居るのを見ることが出来、本火山が近頃までに大活動をなした事を物語って居る。現今も常に活動を続けて居る御嶽に對しては、燃峯又は灰岳の異名がある。

(3)村内必典(1954年) 国立科学博物館研究報告、第1巻、第2号
 諏訪之瀬島は九州と台湾を結ぶ琉球列島に於いて、其の内側に配列している霧島火山帯に属する火山島の一つである。その形は北北東から南南西に向った約8kmの辺を底辺とし、北西方向に頂点を持つ二等辺三角形をなしている。東西の巾は約6kmある。島の中央には799mの三角点があり、ここが最高点となっている。しかしこの三角点も昭和24年9月に始まった活発な活動の再開のために、火山弾火山灰の下に埋もれて現在はそれを見いだすことはできない。洋上からこの島を望見するとほぼ対称的に裾を引いたコニーデで山の斜面は約15°の傾斜をなす。同じ霧島火山帯に属する他の火山に比べると、傾斜は一番緩やかで、このことは後述するように、熔岩の性状、化学分析の結果、噴火地震の規模或いは熔岩の磁気的性質の観測結果とともにこの火山を特徴づけるものである。 

(4)平吉孝明(1983年) 地域研究、第24巻、第1号
 諏訪之瀬島は琉球弧の東北部に位置する火山島で、いわゆる琉球火山帯の南端近くを占める。付近には左ズレ水平断層といわれるトカラ海峡断層があり、微妙な位置にある。周辺の海図をもとに作成した等深線図から、諏訪之瀬島の基底は海面下600〜700mと推定され、海面上と合わせると1400〜1500mほどの高度をもつ火山体となる。基底の長径は約20kmで、北西および西南西の方向に尾根が伸びている。…諏訪之瀬島は北北東〜南南西の方向に長径約8km、短径約5kmの細長い紡錘形をしている。島には山頂が5つあり、北より富立、根山、脇山、御岳、根上岳が直線上に並んでいる。噴火口は、北東より南西に新火口(中央火口丘)、旧火口、根上岳火口と3つ並び、そのうち現在活動しているのは新火口だけである。御岳の北東方向には、長径約3km、短径約2kmの馬蹄形の凹地(海岸の地名をとって作地カルデラと呼ぶことにした)がみられる。本島は全般的に急傾斜であるが、南部にわずかな平坦地があり、島民に生活場所を提供している。島の周囲は切り立った海食崖が発達している。深浦〜脇山下海岸、元浦〜切石海岸には裾礁が、切石海岸には岩井の報告したビーチロックがみられる。

(5)平沢晃一・松本播郎(1983年) 火山、第28巻、第2号
 諏訪之瀬島は複合火山体であるため 複雑な地形をしている。しかしながら、火口跡の分布、山系の連なり、主な火山体の配列はおおよそ琉球火山帯の帯状方向と平行である。また、本島の火山はいわゆる琉球系の他の火山と同様に成層火山である。本島は現在も盛んにストロンボリ式の噴火をしており、その噴出物特に火山灰が地表を薄くおおっている。それとともに、一年のうち降雨は梅雨期と台風時期に集中するため、河谷は急崖をなしているところが多い。また、激しい波浪による浸食作用のために海岸も同様である。(略) 本島は主に富立岳、須崎火山、御岳、根上岳の4つの火山体より構成され、他に東山、マッコー台を形成している噴出物がある。富立岳は古期と新期の2つの活動時期の噴出物に分けられる。御岳は文化年間と明治年間の活動を除くと、古期、中期、新期の3つの活動時期の噴出物に区分される、また、本島には有史の大噴火として、1813〜1814年(文化年間)と1884〜1885年(明治年間)の2回の噴火が記録されている。

(6)小林哲夫(2000年) 第3回諏訪之瀬島火山の集中総合観測、京都大学防災研究所
 諏訪之瀬島は鹿児島市の南西約200kmに位置する火山島である。トカラ列島のなかの代表的な活火山であり、最高地点は標高799m、島の中央部には東方に開いた馬蹄形の崩壊カルデラ(作地カルデラ)があり、その中央には活動的な小スコリア丘である御岳がある。現在のスコリア丘の位置を「新火口」と称し、カルデラの南西側にある火口は一般に「旧火口」と呼ばれている。山頂部から西海岸にかけては、ほとんど植物のない裸地となっているが、この部分には1813年(文化10年)の噴火(文化噴火)による噴出物が厚く堆積している。島をとりまく海岸部は大部分が急な高い崖となっているが、作地カルデラでは比較的平坦な斜面が海岸にまで達している。

(7)嶋野岳人・小屋口剛博(2001年) 火山、第46巻、第2号
 諏訪之瀬島火山は鹿児島市の南西約230km、琉球弧の火山フロント上に位置する。海上に現れた諏訪之瀬島は楕円形で長軸約8km、短軸約6kmである。諏訪之瀬島火山は北から、富立岳火山、須崎火山、御岳火山、ナベダオ火山(別名、根上山)により構成される(平沢・松本、1983)。須崎火山を除く火山体は北北東ー南南西方向に連なり、諏訪之瀬島の主稜線を形成する(本論ではこの稜線のうち御岳山頂〜トンガマ間の稜線をトンガマ尾根と呼ぶ)。詳細については後述するが、文化噴火で活動した火口としては、島の中央に位置する現在活動中の御岳火口、その南西750mにある旧火口の地形が明瞭である。また、トンガマ尾根上の割れ目火口およびその南のトンガマ火口でも活動があったと考えられる。御岳火口は、島の中央から東側に開いた馬蹄形カルデラ(作地カルデラ)内にある。作地カルデラは、カルデラ底の浸食程度の違いから、浸食の進んでいない新期カルデラと浸食の進んだ旧期カルデラに分けられる。

(8)西村太志・井口正人(2006年) 日本の火山性地震と微動、京都大学出版会
 諏訪之瀬島は鹿児島県の屋久島と奄美大島の間に点在するトカラ列島の一つであり、鹿児島市から240km南南西にある。有史以後の噴火では、1813年に島の西海岸に、また、1884年に島の東海岸に溶岩流が達するような規模の大きい噴火が発生した。その後も時々噴火を繰り返し、特に1950年代以降は、御岳山頂から北東に開いたカルデラ内の火口においてストロンボリ式やブルカノ式噴火を繰り返しており、わが国でもっとも活動的な火山の一つと言える。1995年以降やや静穏な時期が続いたが、2000年12月にこれまで噴火を繰り返してきた中央火口丘の北北東に新たな火孔を形成し、噴火を続けている。

(9)植田義夫・小野寺健栄・熊川浩一・小山薫(2007年):諏訪之瀬島の地磁気異常と3次元磁気構造、火山、第52巻、2号
 諏訪之瀬島は桜島の南西約200kmに位置する活火山で、現在でも度々ストロンボリ式噴火やブルカノ式噴火を繰り返している。山体は主に4つの火山が集積してできた複合火山で、安山岩質の溶岩と火山砕屑物から形成されている。山体の最高峰は御岳の南壁で799mの標高を有する。周辺の海底地形を参照すると諏訪之瀬島の基底は水深700m付近にあり、標高0m付近は海面下の地形を考慮すると、ほぼ5合目に相当する。



                                         諏訪之瀬島全景(中央:御岳火口 右:富立岳)



          十島図譜(白野夏雲) 諏訪之瀬島噴火見取図(御岳火口としている)

火口の変遷

  作地カルデラの頂部に火砕丘である御岳火口(新火口)が位置する。これがいつ出来たかは定かではないが、白野夏雲の七島問答には『これからいよいよ東部に入るわけだが、丁度島の東側に当たっているのである。ここから火口を望むと噴煙が手に取るようである。再び船をとめて、丁度噴火の盛んなのを見る。その火口は、脇山の裏側で、頂上から二分ばかりの下ったところにあって、火口の形はまんまるで、その周りに三段になって堤ができていて、行儀よく整然としている。』とあり、すでに1884年(明治17年)4月20日にはほぼ現在と同じ状態であることがわかる。
 以下の写真は、その後の火口の変遷である。1の写真は、1915年(大正4年)に大森房吉が撮影した最初のものである。以下、ほとんど現在まで形状に大きな変化は見られない。


1 1915年火口(大森撮影) 2 1953年火口(村内撮影)  3 1960年火口(松本撮影) 
 
 
4 1968年火口(立正大学探検部撮影)         5 1969年火口 6 1970年火口
 
7 1971年火口 8 1972年火口 9 1973年火口
 
10 1974年火口 11 1978年火口 12 1981年火口
 

 

噴火の様子

 1978年8月8日 噴火1   1978年8月8日 噴火2    1978年8月8日 噴火3
 
 
 1978年8月8日 噴火4   1978年8月8日 噴火5  1978年8月8日 噴火6
 
 
 

 

<掲載した写真・図等について>
 特に出典を記していない写真・図等は平吉のオリジナルである