作地カルデラの生成と明治溶岩流
作地カルデラは、火山爆発により山体の一部が崩壊して馬蹄形の凹地になった爆発カルデラと考えられている。いつごろ生じたかは諸説あるが、カルデラ壁を見るかぎりかなり新鮮で、新しい時代と考えられる。カルデラ内の大半に、その際に生じたと考えられる岩屑なだれ(ここでは作地泥流と呼んでいる。作成当時、岩屑なだれという用語は存在しなかったので)が覆っており、さらにその上を明治溶岩流が覆っている(下図参照)。カルデラ底は、大半がこの新しい堆積物に覆われており、重なり具合を確かめるのは困難であるが、作地温泉から流れる温泉水が作った小規模なキャニオン(比高数十mほど)や海岸線で確認することができる。作地温泉は下の写真6に見られる通り、明治溶岩流と作地泥流の間に湧出しているが、数十m下流で伏流し海岸線あたりで再び湧水している(現在観光客等が利用しているのはこの海岸線に湧く野趣たっぷりの海中温泉である)。
作地カルデラの末端の堆積物の構造を表したのが、下図のやや誇張した海岸線の露頭図である。岩屑なだれの下部にある3種類の溶岩流(1種類の可能性もある)がカルデラ形成後に生じたものかどうかは不明であるが、少なくとも山体崩壊が2回以上あったとすると、1回目の崩壊後に流出した後、2回目の崩壊が生じてその上を新しい岩屑なだれが覆ったと考えられる。
作地カルデラの地質図(1983年作成) 作地カルデラの堆積物(火山土地条件図「諏訪之瀬島」より) 2023年作成
作地カルデラ全景(中央部が御岳火口、扇状に広がるのが作地カルデラ)2024年8月
作地カルデラ内の地質柱状図(1983年作成)
作地カルデラの海岸線に見られる露頭図(1983年作成)
1884年(明治17年)の噴火活動
(1)七島問答(1884)
白野夏雲がこの島を訪ねたのは1884年4月20日で、船上から1日のみの視察であった。その際も新火口の噴火を間近に見て、十島図譜にその様子を描きとめた(下図)。ただし、大噴火はその年の10月ごろから翌年の2月ごろまでなので、前兆ともいうべき噴火を目撃したようである。
作地沖から見た新火口の噴火の様子(十島図譜)
(2)拾島状況録(1895):現代語訳
『北面にある火口は新しくできたもので、きわめて大きい。周囲二十余町(2.2km)、深さ二町(216m)ほどで、中の岩石はみな熔岩となって東へ流出し、扇形にひろがり、北は富田崎の南方から、南は荒崎のあたりに至る一里(4km)ほどの海岸を、厚さ二間(3.6m)から十余間(18m)にわたっておおい、さらに海中へも流れ出した。その色は、西海岸の溶岩と同じ色だ。新火口の底には、さらにもう一つの直抗があり、深さ一町(108m)ほど、周囲十町(1.1km)ばかりで円形をなし円形をなし、深さ数間のところまで、まるで熟練した土工の手になるような、岩石一つまじっていない土だけの崖をめぐらしている。この火口からも十余町(1.1km)にわたって溶岩が流れ出し、以前の溶岩の上をおおい、さらに二筋にわかれて海中に突き出した。この溶岩の流れの上には、地底から数十間の高さにふきあげられた、鋳鉄のような溶岩が落ちてきて上にのっている。臥龍のような形のもの、ねている牛の形をしたもの、巨砲や巨鍾形のもの、円柱をなしているものなど、実にさまざまで、その形は奇々怪々だ。しかし、中は空洞になっているので、叩いたり踏んだりするとすぐこわれてしまう。この溶岩は明治十七年十月から十八年二月にかけて噴出したもので、まだそれほど古くない。その上、以後まったく人が足を踏み入れていないので、形は原型をとどめている。また風化して土砂となることも少ないので、遠くから見ると色は黒い。この第二の新坑は、明治17年来噴火を続けていて抗の内側には五つの小さな噴火口があり、白い煙があがっている。そのうちの一つは、まわりが黄色に染まっている。数町先からみると、煙にさえぎられてよくわからないけれども、たぶん硫黄の結晶したものである。(略)明治17年十月の大爆発以来、次の年の二月まで鳴動がやまなかった。近いところへはたえず焼石、軽石、灰が振り、夜は火焔が島中を照らし、そのあかりで、夜戸外で仕事をすることができたという。しかし鳴動も降灰も次第におさまり、明治22年頃にはほとんど止んだ。現在でも時々鳴動があり、灰が降ることもある。例年旧暦九月頃から翌年の二月頃まで噴火の勢いがますという。いま行った軽石や灰は、島の南端や移住民の住居のあたりでは、八寸(24cm)ばかり積もっている。』
*笹森は、1895年7月11日から8月4日までの25日間を諏訪之瀬島で過ごしている(最初の4日間は病床に伏していた)。南西諸島の調査自体は、4月27日から8月27日までの4ヶ月間行われている。この記録に描写されている様は、全く現在と変わりがない。ただし『臥龍のような形のもの、ねている牛の形をしたもの、巨砲や巨鍾形のもの、円柱をなしているものなど、実にさまざまで、その形は奇々怪々だ。』との記述は正確ではあるが、自ら歩いたかどうかが不明である。現場を歩かないと観察できない内容なので、島の人から聞いて記録したのかもしれない。カルデラ壁の山頂からでは見ることが出来ないし、叩いたり踏んだりとの実体験も謎である。笹森の記した巡回覧日記によると作地の溶岩流の上を歩いたとの記述はない。7月18日に迫地浜(迫尻か大船浜あたりか)に上陸し、熔岩を踏み分けたとの記述があるのでこちらと混同したかは定かではない。大船浜溶岩流には明治溶岩流独特の下の写真3〜5に似た溶岩は余り見られない。
(3)諏訪之瀬島の火山活動 付:火山噴火史(1974)
1813年の大噴火以来、約70年間無人島であったためその間の火山活動については全く不明である。1876年に大島(奄美)から移住を志す人々によって再び諏訪之瀬島に足が踏み入れられ、以来2〜3回探検が行われた後、1884年頃から本格的に移住が始まった。まさに噴火はこのような時に起こった。大噴火の起こる以前の状況をみてみると、1877年に3日間程噴火したのが種子島で聞かれ、1883年には移住民によって噴火したことが確認された。なおこの時に噴石丘が作られたと伝えられているが、真偽のほどはわからない。カルデラ内の様子から、もっと以前に形成された可能性が強い。その後1884年4月には白野夏雲が島を訪れ、船上より火口が観察された。この時には既に噴石丘が観察されており、噴煙が火口を満たしていたとあるが、異常な現象は起こっていないようである。4月15日には移住者7名が島に到達し、生活を始めたがしばらくは何も起こらなかった。約半年後の10月に入り、噴火活動が始まった。なおこの噴火の前兆現象については何も伝わっていない。大音響とともに始まった噴火活動はまず初めに軽石(おそらくスコリアと思われる)を噴出し、次に黒色火山灰を降下させ、続いて白色(茶褐色)火山灰を降下させた。それらの噴出物は集落付近で8寸(約24cm)程の厚さになったといわれているが、現在この噴出物を集落付近で識別できない。この活動は翌年2月頃まで続き、その間に作地方面に溶岩を流出した。その溶岩流は、松本唯一氏によって明治溶岩流と命名された。以後も小規模な噴火が度々繰り返された。
噴石丘と明治溶岩流の写真(1969〜1981年)
3や4の写真に見られる特徴ある溶岩(パホイホイ溶岩)は、噴石丘の近傍からカルデラ内の中央部あたりまでである。6や8、9の写真に見られる溶岩はコークス状のどちらかというとアア溶岩に近い形状である。
1 この噴石丘より流出(手前は溶岩流) | 2 噴石丘下部から流出する明治溶岩流 | 3 溶岩流の形状(パホイホイ溶岩) |
4 溶岩流の形状(縄状溶岩) | 5 溶岩流の形状(パホイホイ溶岩) |
6 海岸線付近の明治溶岩流(下部は泥流) |
7 小富立岳付近を進む立正大探検部員 | 8 海岸線での明治溶岩流 |
9 海岸線に流出した明治溶岩流
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