1889〜1915年の噴火活動記録
西暦
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元号
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月日
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噴火記録(参考文献)
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噴火活動
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1889
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明治22
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10月
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『明治二十二年十月二日大島名瀬港ニテ午前一時三十分頃東北ニ當リ遠雷ノ如キ響キアリテ微震シ約十分間ヲ経テ砲聲ノ如キ響アリテ一分間震動シ其レヨリ強震三四回ニシテ僂々鳴動ス、爾後十餘日間ハ一日ニ五六回ヅツノ震動アリ漸次減少シテ十三日ニ至リ全ク止ム、當時諏訪之瀬島噴火ノ報アリタレバ其ノ空氣波ガ大島ニテモ鳴動トシテ感ゼラレタルモノナルベシ。』(日本噴火志) 『鹿児島懸鹿児島湾を距る南東百三十浬の處に當れる諏訪の瀬島は周圍凡そ五浬ありて海水より突出すること一浬餘なり。数年前に在りし樹木島中に蓊鬱たりしに去る十九年中一度噴火せしが又立ちどころに舊に復したるも噴火後は鹿児島懸廳より人民の移住を禁じありしが近頃に至り又何時となく移住せしものと見え、現今にては竈の数十八戸もあるよしなり。本月上旬鹿児島海運会社の大有丸が該島に噴火を認めしとて鹿児島懸廳に報告せしより同廳にては其模様を調査せんとて十月十一日屬官二名を大坂商船会社の安治川丸に乗り込ましめ該噴火の模様を視察せしめしも何分風波の荒き海上にて端舟を御す能はず且つ安治川丸も借り切りしと云ふ訳にもあらざれば遂に其希望を達せずして同二十日に一先ず鹿児島へ引き取り、安治川丸は帰坂せり却説同船船長の談を聞くに安治川丸、該島を距る凡そニ浬許の處にて視察したるに大小二個の山ありて其一なる高王山の頂上より二分時毎に濛々勃々噴火し居るとのことなるが人家は丁度其下に當り居るものの如きも何分二浬を隔り居ることなれば其住民の安否如何い迚ても見分くる能はず其噴火の光は夜間の遠望ふ充分にして十八浬の遠き距りふも達する程なりと云へり尤も同懸にては更に實測の好方便を考へ出して復び出張する筈なりと云へり又右噴火の餘響にてもあるか数日前来大島辺も頻りに動揺せしとのことにて同島民も大騒ぎを為し居るよし因に記す同島は鹿児島にて口永良部島、郷の島、中島、矢文島、鬼界島、悪石島と共に数へらるるものなりと云ふ』(地学雑誌) |
地震 噴火 |
1914
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大正3
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3月
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『3月21日諏訪之瀬島の火山活動し、時に鳴動し火煙盛んに昇騰す。火の高さ約50尺、煙の高さ500尺におよべりという。しかれども平素より活動強大なりしというに過ぎず島民も避難せざりき。』(気象要覧) 『…。櫻島破裂後ハ地変ハ南方二繼續シテ、同(大正2)年二月十三日ニハ薩南海中ノ硫黄島(鬼界島)二強キ地震アリ。翌三月二十三日ニハ更二南方ナル諏訪之瀬島二モ強キ地震ヲ発シタリ』(日本噴火志) 『大正三年に再び大噴火が起きた。この時は恵こう太郎一家を除く全員は、ちょうど来島中の太陽(あるいは太洋)商船の角栄丸に救助されて一時大島へ引き揚げた。』(トカラの地名と民俗) |
噴火 |
1915
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大正4
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7月
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『沖縄丸の報告によれば、7月6日午後4時頃諏訪之瀬島に接近せしに噴煙激しく午後5時半頃に至り一団の黒煙高く天に冲し、濛々たる煙霧の中より突出し約3000呎の高さに昇謄せり。午後7時半頃向島より12浬程の風下に来りし頃は少量の灰船上に降るを認めたり、しかして1分乃至2分毎に遠雷の如き音響と共に黒煙噴出す。船の向島より8浬程の處においては約4〜5百呎の高さに火花の昇散するを観望したりと。』(気象要覧) 『…七月十六日ニハ霧島山附近ヨリ強震ヲ発シ、九月六日ニハ諏訪之瀬島ヨリ強震ヲ発シタリ。』(日本噴火志) |
噴火 |
9月
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『去る九月二十五日太洋汽船会社汽船白川丸にて早朝諏訪之瀬島に着同汽船にて同島を一周の上、上陸し四日間諏訪之瀬島に滞在…大森理学博士の報告によれば…諏訪之瀬島現下之地震は蓋し浅間山の場合の如く噴火の前駆現象にして、近時諏訪之瀬島の噴火力が減退せる為め誘発せられたるものなるべし、其跡を絶つに及べば再び噴火の勢力を増し一二年前の活動状況に復するものならんと察せらる』(地学雑誌) | 地震 |
<参考文献>
・地学雑誌(1889):諏訪の瀬島噴火、雑報
・気象要覧(1915):気象庁
・トカラの地名と民俗・下(1974):稲垣尚友、ボン工房
・地学雑誌(1915):諏訪之瀬島の噴火に就きて、雑報
大正4(1915)年の火口(大森房吉撮影)