1884〜1886年の噴火活動記録
西暦
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元号
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月日
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噴火記録(参考文献)
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噴火活動
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1884
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明治17
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4月20日
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『其火口は脇山の裏面に於いて其の頂上より二三分の處に在り。其釜口真圓にして次第に堤を廻らす三段、段々行儀整然として人工と雖も及ぶべからず。その秤量目度の測知すべきに非ざれども思ふに釜径約百歩許、吐咽釜口に満ち、吐穴絲を繰るが如く、又伸びて柱を立つるが如く、前に吐くものは累々として登り、之を望む人をして飽くかしめず、その風に随ひ煙の向ふ所常に灰を降らし又石を飛ばす』(七島問答) 『押出シニ至リ其山頂ヨリ火山物ノ一直線ニ押出スノ現状ヲ見ル驚クヘシ此処南二荒崎ヲ受ケ稍弓形ヲナスノ一小浜アリ小水アリ若南風二逢ハハ小舟ヲ避ルヲ傳ヘシ』(七島問答 原文) |
噴火 |
10月
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『明治十七年十月大破裂ヨリ、翌年二月マテ鳴動止マラス。其近地常ニ焼石ヲ降ラシ、全島到ル處軽石若クハ灰ヲ降ラシ、夜間ハ火焔島中ヲ照シ、其明ヲ以テ暗夜外業ヲ執ルヲ得タリ。然ルニ鳴動降灰次第ニ衰へ、明治廿二年頃ニ至リ殆ニト止メリ。現今鳴聲時ニ起リ、又或ハ時ニ降灰ヲ見ル。例年陰暦九月頃ヨリ翌年二月頃マテ、噴火ノ勢ヲ増スト云ヘリ。以上ノ軽石若クは降灰ノ積ムモノ島ノ南端移住民住居ノ地八寸許ニ及ヘリ。』 『明治十七年大噴火アリ熔岩ヲ島ノ北東ナル作地方面ニ流出シテ海岸ニ達セリ、其ノ前後モ瘻々噴火シ、中之島、種子島、鹿児島市ニ鳴動ヲ傳ヘタルコト稀ナラズ。明治十七年ノ噴火口ハ極メテ美麗ニシテ直径約四百五十メートルナル正圓形ノ圓錐状ヲナス。』(日本噴火志) |
大噴火 |
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1885
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明治18
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1〜2月
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『鹿児島懸南海ノ鳴動ハ初硫黄島近海噴火破裂スベキ響ナリトノ風説ニ付其実否及島地ノ情況視察ノ為メ曩ニ同懸ヨリ派遣セシ官吏ハ先硫黄島迄渡航セシガ右鳴動ハ該島近海に非ズシテ尚遥ナル南方ニ當リ鳴動セルニ付キ其實地ヲ視察セントスルモ素ヨリ該島以南七島海ハ波濤激烈航海不便ノ時ナルヲ以テ渡航スルコト能ハズシテ帰廳シタリ而シテ右鳴動ハ現ニ諏訪之瀬島ニシテ目今(明治十八年二月二十日)ハ其響稍々止ミタルガ如クナリシモ人或猶間々鳴動スト云フ者アリ、…而シテ去ル一月中大島郡ヨリ寄航ノ途次實見シタル懸官福井信篤ノ語ル所ニ據レバ遠ク一里餘ヲ隔テテ観察シタレバ今回鳴動ノ詳細ヲ説ク能ハザリシモ噴火大小数個ニシテ其大ナルモノハ数個ノ蹈鞴火ヲ合セタルモノノ如ク其火焔ノ噴出スルハ概ネ時間ニ十分内外に噴出シ百間許ニ上リ其震響實ニ驚クベシト伝ヘリ。本年一月十二日午前一時頃ヨリ南海ノ方位ニ當リ瘻々鳴動シ恰モ遠ク戦地ノ砲聲ヲ聞クガ如ク一聲一聲紙障ニ響キシモ原因ヲ知ルモノナキヲ以テ同月廿一日實地調査ノ為メ官吏ヲ派遣シタルニ其状況前記ノ如ク二月ニ至リテ漸次鎮定セリ。』(日本噴火志) |
噴火 |
5月
7月 |
『明治十八年五月上旬諏訪之瀬島附近ヲ航行セルトキ煙勢最モ強ク夜間之ヲ眺メバ恰モ煙臺ノ下ニ在ルガ如ク該島ヨリ二十里ヲ距ツルモ尚亦赤色ノ火光ヲ認ムルヲ得タリ。』(日本噴火志) 『七島ノ地質慨シテ硫黄分ヲ含有セサルモノナシ就中諏訪ノ瀬島ハ最モ多量ナリ本島ノ噴火ハ何百年前二起リシカ得テ知ルヘカラスト雖モ隣島古老ノ言ニヨレハ二三十年間ニハ必ス一大破裂アリ今春一月ノ鳴動ハ未曾有ニシテ其火口ハ御嶽ノ裏面ニアリ當時ノ降灰ハ極テ烈シク十里内外二飛散シ鳴動百里外二轟ケリ是カ為メ七島人民寝食ヲ安セサルヲ三旬ノ長キニ渉レシト云フ爾後火勢減衰セシモ尚他ノ七島火山ノ如ク平穏ラス晝夜間断ナク鳴動シ噴出スル煙灰ハ漆黒ニシテ照炎ハ天ヲ衝キ横二倒レテ空ヲ覆ヒ東風二逢ヘハ西二倒シ西風二逢ヘハ東二向ヒ降灰尚ホ数里ノ間二飛散シ人ヲシテ膾寒ク心悸レシム』(島嶼見聞録) 『廉蔵等諏訪ノ瀬島ニ航シ現況ヲ視察セシニ噴火尚其盛ニシテ鳴動轟々天地為メニ振百千ノ霹靂頭上ニ堕落スルカ如シ』(島嶼見聞録) |
噴火 | ||
1886
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明治19
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『鹿児島懸鹿児島湾を距る南東百三十哩の處に當れる。諏訪の瀬島は…去る十九年一度噴火せし…』(地学雑誌) | 噴火 |
<参考文献>
・七島問答(1884):白野夏雲
*白野夏雲は当時鹿児島県の勧業課長で、県令の命により明治17年3月29日から5月6日まで十島村を実地調査した。七島問答はこの調査報告書(十島村役場が1968年に現代語訳として復刻した)である。ちなみに、当時の諏訪之瀬島は無人島であった(隣の悪石島で、70年前に避難していた生き残りの2人の老婆から聞き取りした)。
・島嶼見聞録(1887):赤堀廉蔵他22名、鹿児島県
*鹿児島県知事に命じられ赤堀らは地租改正のための調査を行ったが、内容は白野の報告とほぼ同様であった。
・地学雑誌(1889):諏訪の瀬島噴火、雑報
1884年噴火で生じた火口(現在も噴火活動中)
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明治溶岩流分布図
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