742〜1883年の噴火活動記録

西暦
元号
月日
噴火記録(参考文献)
噴火活動
742
天平14
12月

『十一月壬子大隅國司言、従今二十三日末時、至二十八日空中有聲如太鼓、野雉相驚地大震動、丙寅遣使於大隅國檢問杵請聞神命』 (續日本紀)

活動あり(注)

1813
文化10
 

『御岳ノ南北ニ面新舊二ノ大噴火口アリ。南ニアルハ文化十年、大破裂ヲ為シタル舊抗ニシテ、其抗直陥スルコト貮町餘、周囲拾餘町、御岳ノ壊餘ノ焼峯凸凹トシテ囲焼抱持ス。西方高壱町餘、巾四拾餘間ノ間岸壁陥リテ切口トナリ、岩石ヲ熔解流出セシ跡存在ス。此火漸ク頂上二遷リ北面二及ヒ、現今ノ新火口ヲ生シタルモノニシテ、該坑今ハ全ク燃焼ヲ見ス。明治十六年、同抗ノ附近二来リタリト云フ者一人アリ。登山同導ヲ為ス。依テ其當時ノ状況ヲ問フニ、彼レ曰ク當時既二燃焼ヲ見サリシモ、抗底今二比スレバ深クシテ、且底ノ周囲小ナリシト。雨水ノ為メニ流積埋没シタルモノナリ。現今坑底ノ周囲五町餘ニシテ、平坦トナレリ。年ヲ経ル二従ヒ益々浅クシテ、廣キニ至ラン。西方切口ヨリ熔解流出セシモノハ扇子ヲ倒スニ開キタルカ如ク、海岸ノ地南大船濱ヨリ北脇山ノ下ニ至ル壱里餘ノ地ヲ蔽ヒ、挽テ海中ニ突出シ、厚貮間ヨリ拾餘間ニ至ル』 『之ヨリ文化ノ噴壊ノ、住民ニ及ホシタル影況ヲ述ヘントス。悪石島ニ避ケタル両媼云フ。其破裂ト共ニ(前徴ノ有無、其時期等、今之ヲ詳ニセス)大ニ鳴動シ火石ヲ降シ、家屋焼失シ、其危險を島ノ東南端七ツ穴ノ岩窟中ニ避ケ居ル数日、切石港ヨリ船ヲ艤シ悪石及中ノ島ニ遁レタリ。時ニ切石ニ繋留ノ船降灰充満シ、鍬ヲ用ユルニアラサレハ、之ヲ除去スル能ハサリシト』(拾島状況録)

『噴火破裂シテ居住ノ民人悉ク他ノ諸島ニ逃レ避ク其後噴煙絶ヘズ因リテ明治十六年頃迄ハ無人島トナル。此ノ噴火ノトキ熔岩ヲ島ノ南西ナル迫尻及ビ水河方面ニ流出シテ海中ニ突出シタリ。當時新タニ生ジタル噴火口ノ直径ハ三百メートルニ達ス』(日本噴火志)

大噴火
降灰
スコリア降下
火砕流
溶岩流

1877
明治10
  『明治十年頃種子島ニテハ三日間程續キテ音響アリ遠キ砲聲ノ如クニシテ鹿児島砲戦ノ響ナランカナド語リ合ヒシガ後二至リテ諏訪之瀬島ノ噴火ナルコト判明セリト云フ(鮫島鐵馬氏ノ談ニヨル)』(日本噴火志) 噴火
1883
明治16
  『移住民傳云フ、文化ノ噴壊ハ西面休滅抗ニシテ、其火東漸シ、明治十六年ニ至リ、東北面ヲ火噴壊シテ今新抗ヲ為セリト』(拾島状況録) 新噴火口誕生

<参考文献>
・續日本紀(797):菅野真道ほか
*注 ただし、この噴火については霧島山説と諏訪之瀬島説と2通りある。
・拾島状況録(1895):笹森儀助
*注 これは明治27年、笹森儀助が大島島司に任ぜられた後、明治28年4月27日から8月27日までの間南西諸島をめぐって聞き書きしたものである(笹森の故郷青森県の県立図書館にこの原本が残されていたのが、宮本常一氏によって発掘され、1968年に「日本庶民生活史料集成」(三一書房)として世に出た)。
・日本噴火志(1918):大森房吉、震災予防調査会報告第86号(1973年に稔書房より覆刻版)

文化溶岩流分布図
文化(1813年)火口(現在は旧火口と呼ぶ)
噴火で埋没した墓(正徳元年の墓)
1813年噴火のスコリア(赤墨)